幼少期と学生時代を経て、社会に出て働き始めた約30年間の最も多感な時期を過ごした時代が昭和でした。
今と全く異なる昭和時代の幼少期を振り返りかえります。
昭和家電の記憶
昭和64年間の前半(1926-1958年)では第二次世界大戦が勃発し、日本は敗戦を経て戦後の復興で激動の時代でありました。私が生まれ育った昭和30年代(1955年以降)は戦後から10年経過し、夢の超特急と呼ばれた東海道新幹線の開通や東京オリンピックの開催などが話題となった高度経済成長期で日本全土が大きく変化していました。
生活環境も急激に変化し、新しい製品が次々と生まれてきた時代でもありました。家電製品の三種の神器と呼ばれた、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が、自宅にやって来たのもこの時代です。今の電気製品は家電量販店で購入しますが、昔は町の電気屋さんから購入するのが普通でした。電気屋のおじさんが新し家電を家に持って来て設置していく作業を毎回心躍らせて見ていました。
昭和のテレビは今と比べると性能はかなり劣りとても不便なものでした。テレビのチャンネルはダイヤル式で遠隔操作もできず、画質も非常に粗かったです。当時のテレビ画面はブラウン管方式のため奥行きがあって、大きな箱型で重いものでした。電気回路には真空管を使っていたために応答も悪く、電源スイッチを入れても画像がすぐに出なく、視聴を始めるにはしばらく待たないといけませんでした。それでも技術の進歩は目覚ましいもので、日に日に性能が良くなっていきました。幼少期の物心ついたころに初めて自宅に来た白黒テレビは12チャンネルのVHS放送しか見れませんでしたが、14チャンネル以上のUHF放送が新たに開始され、それに対応するためにアンテナとコンバーターを追加しました。それでも放送局はNHKと民放が2局しかなかったため見る番組の選択肢は少なかったです。現在のようにネット配信で好きな番組が見れない不便さがありましたが、番組が限られていたため学校の友達と共有し易かったためテレビ番組の話題は盛り上がっていました。当時のテレビ画面は白黒が標準でした。その後カラー放送も始まり白黒画面の片隅にカラー放送と表示が出るようになりましたが、白黒テレビでカラー放送が見れないことを知らなかった幼少当時はカラーにならない画面を不思議に思っていました。しばらくして自宅にもカラーテレビがやって来たときにはその鮮やかな色合いに感動しました。昭和のテレビは大きく威厳のあるたたずまいで、家の中心にあって家族みんなで一緒に観賞する特別な存在でした。デザインも木目調で荘厳なもので主張も強かった気がします。テレビ画質の進歩は目覚ましいものがあり現在見ている画像は本当に緻密で綺麗です。それでも時折白黒テレビ時代の粗く古めかしい映像が流れると幼少期の記憶が蘇って郷愁を感じます。
洗濯機の進化も著しいものがありました。我が家に来た最初の洗濯機は脱水機がなく、衣類を絞るためのローラが洗濯機側面に付属しいました。2つのローラーに洗濯物を挟んで手動でローラを回すことで絞られる簡単な機構でした。その後、洗濯槽に脱水機が付いた2層式洗濯機、洗濯槽と脱水機が一体となった1層式洗濯機、さらに乾燥機も付いたドラム式洗濯機と進歩してきました。本当に便利になったものです。ただ幼少期の洗濯機は洗濯層しかありませんでしたが、モーターで水流を回す様子が面白くて飽きずに見ていました。時々船の玩具を浮かべて反転する渦と一緒に動き回る様子をジッと眺め、楽しんでいました。幼少期は身近なものが何でも興味深く、どんな些細なことでも観察していたようにおもいます。年齢を重ねて知識が増えると幼少期の好奇心が薄れてしまったような気がします。
音響家電の進歩も目覚ましいものがありました。小学校に上がる前に、家にはオープンリールのテープレコーダーがありました。童謡を歌っている音声を録音してもらいました。再生された自分の声を聴いたとき自分の声と違うと言っていた記憶があります。そのテープは今も手元に残っていますが機械自体が壊れてもう再生できず残念です。中学生になったときラジオとカセットテープが一体となったラジカセを買ってもらいました。ラジカセは当日ブームとなっていた電波で声が飛ばせるFMワイヤレスマイクを付属したナショナルのラジカセRQ-448 MAC ff(発売時期: 1973年)でした。深夜に笑福亭鶴光や松山千春のオールナイトニッポンを聴取したり、FM東京のJET STREAM(ジェットストリーム)から流れる洋楽を聴いたり録音したりしていました。高校と大学の受験時期だったので、就寝前のラジカセから流れるリスナーの投稿や静かな音楽は勉強疲れを癒してくれました。
晴れて大学に入学できた年(1978年)には、歌番組「ザ・ベストテン」が始まりました。ピンクレディ、松田聖子、中森明菜、沢田研二、寺尾聰等々のヒット歌謡曲をラジカセで録音しました。周りの雑音も一緒に録音されていましたので音質はい今一つでした。もっと良い音で録音したいと思いオーディオコンポを買いました。当時は車のカーオーディオで音楽聴くため、コンパクトディスクをレンタル店から借りて音楽をカセットテープに録音しました。令和の時代になると車のオーディオではカセットテープで聴けなくなったのは残念です。オーディオコンポにはレコードプレヤーもありました。針でレコードの溝から音を拾うアナログ的なものでしたので、溝に付いた埃で音楽にノイズが入ったりして、音色にも趣がありましたね。
昭和家電を振り返えると現代と比べて技術も性能も随分と劣っていたなとあらためて思います。決して裕福な時代ではありませんでしたが目覚ましい技術革新の変遷を昭和家電の進歩を垣間見ることができます。(2024/9/24記)
幼少期に見ていたテレビ番組
現代はネット配信で好きな映画やテレビ番組をオンデマンドでいつでも見れる時代ですが、昭和時代はそれほど自由には番組を選んで見ることはできませんでした。テレビ局から配信される限られた番組を視聴するしかない時代でしたので、ほぼ皆同じ番組を見ていたと思います。そのため学校に行くと前日に放送されたテレビ番組が話題の中心でした。昭和30年代はテレビが普及した時代で、当時の子供たちはテレビアニメを夢中になって見ていました。
私が小学校低学年までに見ていたアニメと言えば、「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「8マン」、「少年忍者風のフジ丸」、「ビッグX」、「スーパージェッター」、「ジャングル大帝」、「W3(ワンダー・スリー)」、「宇宙エース」、「オバケのQ太郎」、「宇宙少年ソラン」、「おそ松くん」、「パーマン」、「マッハGoGoGo」等々、今思い出すと「見過ぎです!」と注意したくなるほど数多くのアニメを見ていました。あらすじはうろ覚えですが、当時はアニメのキャラクターを見様見真似で描いていたのでその姿形は今もはっきりと覚えています。絵を書くことが好きになったキッカケだった思います。アニメ以外では特撮番組も観ていました。小学校1年のときに「ウルトラQ」が始まり、それに続く番組として「ウルトラマン」が始まりました。まだ幼かったので「ウルトラQ」は少し怖かった気がします。「ウルトラマン」はヒーローとして本当にカッコ良かったです。スペシウム光線を発射するときの手を交差する形を真似て良く遊びました。小学校の高学年に放映が開始された「仮面ライダー」にもかなり感化されました。普段使っていた20インチの子供用自転車を仮面ライダーが乗るモーターバイク「サイクロン号」に見立てて、近所の造成地の土壁の坂を滑走したりしていました。かなり活発に外でも遊んでいたと思います。昭和のころの近所はまだ舗装されていない道路がほとんどでした。雨が降ると土の道路には所々に水たまりができました。雨が上がったあとは、できた水たまりにめがけて自転車で突っ込み、水しぶきを上げながら走り回ることが楽しみのひとつでした。当時は車も少なかったので自転車で近所を走り回ってもそんなに危なくありませんでした。今は車が多いので道路で遊ぶことはできませんが、昭和のころは近所の道路が子供たちの遊び場でした。本当にのどかな時代でした。
昭和30年代はまだテレビの黎明期であったため日本で作られるドラマは少なく、アメリカで制作されたテレビ番組がたくさん放映されていました。兄がそのような海外ドラマが好きでしたので一緒に私も数多くの海外ドラマを見ました。「奥様は魔女」、「スパイ大作戦」、「コンバット」、「ラット・パトロール」、「タイムトンネル」、「0011ナポレオンソロ」、「宇宙家族ロビンソン」、「宇宙大作戦(スタートレック)」等々です。コメディ、シリアスな戦争もの、空想科学的な宇宙ものなどジャンルは様々で、日本と異なる風景、生活様式、新しい科学技術を海外ドラマから学びました。「奥様は魔女」ではアメリカの豊かな暮らしぶりに憧れ、「宇宙家族ロビンソン」では宇宙船やロボットなどの科学技術を知りました。また「スパイ大作戦」や「コンバット」のオープニングテーマ曲は心を沸き立たせるような高揚感ある曲で、洋楽の洗練されたカッコよさを感じました。タミヤの戦車プラモデルを作ることが趣味になったのも「コンバット」や「ラット・パトロール」で動き回るリアルな戦闘車両を映像で見たからだと思います。幼少期の体験がその後の私の人生に大きく影響していたなとあらためて実感しました。そういう意味で、私はいわゆる「テレビっ子」でしたね。(2024/10/2記)
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